ヴェクト山本1

東京・神保町の小さな雑居ビルが群立する中、ぽつんと佇む1軒のセレクトショップ。それがvekt(ヴェクト)です。周りにはファッションの店もほとんど無く、その存在感が逆に際立ちます。「シップス」の前身「ミウラ&サンズ」アメ横店でのアルバイトを皮切りにファッションの道にのめり込んでいったヴェクト・オーナーの山本さちこさんに話を聞きました。

ヴェクトヴェクト3

ファッションとの出会いは?

小学生の頃から自分の服は自分で選ぶくらい、服には興味を持っていました。また伯父夫婦がセツモードセミナーを卒業したお洒落さんで、「ソニープラザ」で売っていた輸入のクレヨンや「クラークス」のデザートブーツなど、わくわくするような物をプレゼントしてくれました。そんな影響もあって、中学の頃には上野のアメ横に服を買いに行っていましたし、高校の時には、ミウラ&サンズに通っていたほどです。

でもファッションの世界に行こうとは思っていなくて、高3の時、スポーツインストラクターの資格を取って、ジムへの就職も決まっていたのです。ところが就職の3日前に原付バイクで事故を起こして、入院3ヶ月。その後も松葉杖が必要なほどの後遺症で、インストラクターの仕事を諦めざるを得なくなりました。

当然、凄く落ち込んでしまい、しばらくは現実逃避したくて、沖縄に行きました。久米島リゾートで住み込みの配膳アルバイトの仕事をして、1年以上のんびりした生活を送っていました。足の回復もまあまあ良くなってきた頃に東京に戻ったのですが、ミウラに勤めていた友人が辞めるというので、その代りにアルバイトで入ってほしいと頼まれ、ファッションの世界に足を踏み入れました。

ヴェクト2 ヴェクト1

そこからキャリアを積み重ねて行かれたのですね?

いえいえ、カットソーの企画をやらせてもらい、その後、渋谷のミュージアム・フォー・シップスに移動してメンズを担当していたのですが、1992年に寿退社してしまいました。

結婚してから料理の世界にはまって、キッチン用品の「ウィリアムズ・ソノマ」で料理のデモンストレーションのバイトをしたり、日本初のグルメバーガーの店「ホームワークス」でコックをやったりして、結構いい線まで行っていたのですよ。

そんな折に、シップスの「レディスバイヤーが辞めるので、戻って来ないか」と誘われて、95年に復職しました。シップスではアシスタントバイヤーで、米国担当でした。ラスベガスの「マジック」、サンフランシスコ、デンバーの「ウェスタンショー」、ニューヨーク(NY)の「コーテリ」など、合同展やショールームを回って買い付けしていました。

その後2000年に青山の「フレア」に転職して、自分だけで決められる本格的なバイイングに勤しむようになりました。オリジナルの企画もやりつつ、欧州とNYから20ブランドほどを輸入仕入れし、フレアを閉めるまでの10年間、デザイナーとの信頼関係を大切にしてバイイングしてきたことが、一番の誇りですね。

ヴェクト4 ヴェクト山本4

そして遂に自らの店を持ったのですね?

実はフレアの閉店を言い渡されたのが、すでに春物のバイイングが終わった後で、閉店は10年の3月。デザイナーに対して「仕入れた責任上、きちんと売らないといけない」と思ったのです。それで、その年の5月にヴェクトをオープンして、フレアの在庫を販売しながら精算していったのです。そこにはデザイナーと培った信頼関係を続けていけている幸せがありました。

この店のお客は年齢層が高く、素材の質やクオリティーにうるさいのです。そんな中で、私自身は、「振り幅が広い」服を揃えているつもりです。色はベーシックでもディテールに遊びがあって個性を出せる服。一つの服をいろいろな着方で違う服に見えるようにする幅が楽しみ方の根本にあります。だからワンサイズで身長が150センチの人も170センチの人も違った着方、見え方が楽しめる。流行を追いかけないけど、型にはまらない。そんな生き方が品揃えに出ていると思いますよ。

http://vekt.jp

着る人の個性によって、一つの服が変幻自在に違ってくる。そこに行き着くまでに、辛酸をなめた時期もあったようです。でも、それらを糧に今、型にはまらない自由な発想でバイイングと接客を楽しむ姿に清々しさを感じました。都会の片隅にある凛としたセレクトショップの存在に勇気づけられます。

 

パリでの買付の合間にヴァンブの蚤の市にも

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