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20年振り位だろうか。先週、東京・神宮前にあるレディスアパレル、エムズグレィシーの展示会を訪ねた。私が繊研新聞社に入社したばかりの時に担当した企業だ。
1990年11月、営業部(現業務部)に入社してすぐに始める仕事は、『繊維商社年鑑』という繊維関連企業の会社概要が事細かに記された厚さ10センチもある本から、会社のクライアントになっていない企業を探し、アポイントを入れ、お話をお聞きしに行く(つまりは広告営業に行くという事だが)、新規開拓というものだった。
大概の会社は「繊研新聞」と言えば、社長や経営陣に簡単にアポが入ったので、苦労は無かった。しかし27歳の新入社員でファッション関係の経験も無く、伺っては業界とその会社の話をお聞きし、メモを取り、勉強させていただく毎日だった。

最初に訪問したのは、現金問屋とアパレル卸の違いも分からず、日本橋馬喰町の現金卸にブランドの広告提案を行った。出てこられた専務は、「いや~、繊研さんが来られるのは、何年振りだろう」と歓待してくれ、二つ返事で広告を決めてくれた。「ふーん、こんなものなのか」と嬉しさ半分、呆気ない感じ半分。

エムズグレィシーもそんな会社の一つで、当時対応戴いた専務には、百貨店の名物バイヤーを紹介してもらったり、専門店卸の仕組みや取引条件など、色々な話を毎回2時間近くに渡って教えていただいた。そして繊研新聞の広告も初めて出稿いただいたものだ。
広告的に付き合いが始まると自然と編集部の記者とも足を運ぶようになり、婦人服特集などでは、同社の記事も掲載されていくことになる。
ある日、営団地下鉄(当時はまだ東京メトロではない)に座っていると前に立っているサラリーマンと思しき二人の会話が聞こえてきた。
「なあ、エムズグレィシーって知ってるだろ?。あれ、小さい『イ』なんだぜ。繊研に出ていたよ。」
私は心の中で呟いた。「そうなの。繊研社内でも間違える奴が居るんだよ。よくぞ気付いてくれた!」

閑話休題。
同社は90年代に特集テーマとなった「ジャパニーズ・エレガンス」の一翼として欠かせないポジションを確立しているブランドだった。メドウス、エニーなど既に市場から消えてしまった会社が数多くなる中、ほとんど立ち位置を変えずに頑張っているから頭が下がる思いだ。
しかし、生き残っているには訳がある。同じジャパニーズ・エレガンスの範疇でも、マトリックスに落とし込むと「コンサバティブvsコンテンポラリー」「上品vsセクシー」の2軸の中で、ややコンサバティブ×上品というポジション取りだった。ややコンサバ×セクシーには「エニー」、コンポラ×上品には「メゾン・ド・トワル」などがあったことを思い出すが、今はもう無い。

先日訪れた展示会でも、このポジションは変わらず健在だった。代表取締役会長(当時の社長夫人)、その娘さんの取締役と昔話にひと花咲かせて席を辞したが、出口でバッタリ、某老舗百貨店のN常務本店長が入って来られた。「長く続けている大切な取引先」とのことで、同社の真摯な振舞い、人との縁、変わらないブランドへの信頼といった、忘れてはならないキーワードを今一度、胸に刻み付けた日となった。
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