マザー本多さんサングラス

2005年、オンワード樫山と合弁でキャンデラインターナショナル(キャンデラ)を設立し、セレクトショップ「CROON A SONG(クルーンアソング)」の多店舗化に踏み切ったマザーインターナショナル(マザー)。両社の社長を兼務し、アパレル企画輸入卸と小売り事業を切り盛りする本多宏行さんは、ジュンの出身です。遊び心を育んだ幼少時代とそれを如何なく発揮したジュンの時代、そして独立。萌芽を見つける視線は、いつも第一線に居ることで磨かれています。

 中学生がディスコ通い??

「ランドセルが嫌いだった」という本多さん。小学3~4年生になる頃にはランドセルを止め、手持ちのバッグに変えていたそうで、「周囲と同じなのが嫌だった」という本多少年は、小学2年生の時点ですでに「ジャケットが欲しい」などと小生意気な事を言っていました。

東京・練馬区大泉の生まれで、父は医学会の事務局長、母は教員という厳格な家庭に育ちました。それへの反発が下地にあり、加えてスタイリストやモデルもしていたという兄の影響も色濃く受けていました。中学生の時、すでにディスコの「ビブロス」に兄の陰に隠れて出入りし遊ぶなど、大人びた子供だったようです。

大学の商学部に通いながらも、ファッション系の人たちと肌が合うと感じていたようで、自然にファッションの方に目が向いていきました。「好きな事をやっていく方が続くだろう」。そう思った本多さんは、いくつかのアパレルメーカーを受けますが、「固いところが多く、馴染めなさそうだ」との思いを強くしていた際にジュンに出会います。カジュアルな服装で自由な社風、そして何よりもカフェ、レストラン、ゴルフ場、テレビ番組、ミネラルウオーター、ワインと様々なライフスタイル事業を展開していた先見性にも惹かれたそうです。

 物作りを学び、世界各地で見聞を広げる

1981年、ジュンに入社後、「DOMON(ドモン)」というメンズブランドの生産・MDを務め、生地やコスト、物作りの根幹を学んでいきます。特に熊谷登喜夫がデザインするライン「トキオクマガイ・ドモン」には、「その構築性と立体性に衝撃を受けた」と言います。また、後に益子のカフェ&ギャラリー「スターネット」を立ち上げた馬場浩史さんなど刺激的な仲間達にも恵まれました。

入社6年目のある日のこと。「新規業態を作れ」という指示が下ります。丁度、当時の社長(現会長)の子息、佐々木進さん(現社長)が入社し、ともに1ヶ月かけて世界一周しながら、リサーチや駐在員の依頼、ブランド探しに奔走します。ロンドン、パリ、ニース、サルデーニャ島、ミラノ、ニューヨーク、ロサンゼルス、ハワイなど各地を転々とします。

当時、憧れの店でもあったパリの「エミスフェール」を見に行った際には、1万円もするカシミヤシルクのソックスやシーズンカラー10色のニットを整然とずらり並べている様など圧巻でもありましたが、その余裕の有り様に学ばされました。同時にパリの合同展と言えば、メンズが「SEHM(セム)」、レディスが「PRET A PORTER(プレタポルテ)」の時代。しかし固い物ばかりで仕入れられるものは見つけられませんでした。ミラノではショールーム「ZETA(ゼッタ)」がスタートしたばかりで、日本では取れない情報を得ることができるのも海外出張ならではの醍醐味でした。また以前からお世話になっていたサザビーリーグの鈴木陸三さんにも色々と指南してもらったそうです。

こうして作り上げたのが、「アダム・エ・ロペ」。その後のジュンの主力セレクト業態となる店でした。

 モードに振ろう

渋谷と白金に開店したアダム・エ・ロペですが、開店当初は全く売れない店でした。社内的には品揃えは初めての経験で、インポートをどう買えば良いか分からないなど試行錯誤の連続だったようです。世の中は紺ブレ金ボタンブームの真只中。進さんのアイデアで「そのままでは面白くない」とロンドンの蚤の市で見つけたボタンを洗って付けた紺ブレが大ヒットしたそうです。

さて、DCブームも過ぎ去り、それらを牽引していた丸井やパルコなどに対して、新しいジェネレーションの台頭を感じ始めます。それは(館を)縦に回遊しているところから(原宿など街を)面で横に回遊する広がりが始まっていたのです。そこで本多さんは一気に「モードに振ろう」と考えました。

ミラノでは、「CoSTUME NATIONAL(コスチュームナショナル)」を始めたばかりのエンニョカパーサに「もう少しカジュアルに、そしてメンズも作ったら」とアドバイスすると次シーズンには、その声を反映してコレクションを作ってきたので、大量に買い付けし、これが大当たりします。「スペシャル・フォー・アダム・エ・ロペ」という別ラインを1シーズンで2億円以上も買い付けしたそうです。こうして「DOLCE&GABBANA(ドルチェ&ガッバーナ)」「HELMUT LANG(ヘルムートラング)」「MARNI(マルニ)」「JEAN COLONNA(ジャンコロナ)」と新進デザイナーを導入し、躍進します。

仕舞いには学生の作品にも手を出す始末。しかしこれが驚くなかれ、「Stella McCartney(ステラマッカートニー)」だったのです。セントラルセントマーチン美術大学の卒業ショーを見て、半年間に渡って口説いた結果、ステラの自宅(アップルスタジオ近くのポールマッカートニーの家)での商談まで漕ぎ着けます。工場に繋げて、シルクのボウリングシャツなどメンズ、レディス5~6型のファーストコレクションを日本向けに作ってもらいました。その後3シーズンは、毎回打合せしながらアダム・エ・ロペの為だけに作ってもらいました。そうこうしているうちに渋谷、大阪2店は4億円以上の売上げにもなったそうです。

こうして6年に渡って、売り上げ、利益ともに上げつつ、アダム・エ・ロペを軌道に乗せたところで、ジュンを退社し、マザーを設立します。

ステラマッカートニー(中央)と会食後に

ステラマッカートニー(中央)と会食後に。左から2人目が本多さん

 デザイナーを育てる

96年に設立したマザーはオリジナルの「CORTESWORKS(コルテスワークス)」とインポート4ブランドのアパレル企画・輸入卸としてスタートし、大手セレクトショップなどを相手先に拡大していきます。そして優れた個性とデザイナーが集まってくる中、ブランドも着実に増えていきます。そこには、かつてアダム・エ・ロペで海外のデザイナーを育ててきたように「日本のデザイナーも長い目で育てていきたい」という想いがこもっています。「JENEVIEVE(ジュヌヴィエーヴ)」「Flammeum(フラミューム)」とブランドも増え、自社ブランドの編集と仕入れでイメージを作っていこうと直営店「クルーンアソング」を青山にオープンします。この店をディベロッパーが放っておく筈がありません。10社以上からのオファーが来る中、池袋と渋谷のパルコ、ディアモールと4店舗にまで拡大していきます。

 正反対の会社から学ぶ

そして2005年オンワード樫山との合弁でキャンデラを設立し、小売り事業を移管。現在24店舗にまで増えました。

大手アパレルと一緒に事業をすることは、ジュンを選んだ時の自由でカジュアルな雰囲気とは正反対の選択のように見えますが、「逆に面白い部分もあるし、経営の勉強にもなります」と若い時とは異なった成熟した大人のスタンスを、その経験の蓄積と余裕から窺い知ることができます。

「ライフワークは?」と聞くと、「デザイナー含め友人も世界中にたくさんできたので、そんな人たちも含め、モノなのかコトなのか、常に新しいことを提案していく事を続けていきたい」と抱負を語ってくれました。

 http://www.croon-a-song.com

http://www.mother-international.jp

クルーンアソング

クルーンアソング

一番新しい業態、キッカ・ザ・ダイヤリー

一番新しい業態、キッカ・ザ・ダイヤリー・オブ