ファッション須賀本人

レディス、キッズ、雑貨、カフェ、コスメと様々な業態を展開するファッション須賀は、須賀次雄さんが1974年に創業し、自身のライフスタイルと重ね合わせて広げてきた企業です。その原点には、ヨーロッパ各地を渡り歩き、未体験のカルチャーや風土、人々の営みや思考の違いなどを実感し、積み重ねてきた経験がありました。40周年を迎えた今年、改めて創業期を振り返ってもらいました。

運命的な出会いがあった文化服装学院

東京で生まれ育った須賀さんは、4人兄弟の末っ子として49年に生まれました。高校は進学校でしたが、その頃にはデザイナーの道に進もうと心に決め、桑沢デザイン研究所の講義を聴講するなどしていました。ただ当時はまだデザイナーという職業が一般的に認知されていた時代ではなく、親からの反対を押し切っての進学でした。

デザイナーへの道と言えば文化服装学院(文化)かドレスメーカー学院の二つの選択肢という中、友人の誘いもあり、文化の師範科(2年制)に入学します。兄が両親を説得してくれ、2年間だけという約束で学費を出してもらえたそうですが、その後デザイン科に編入して学んだため、2年間はアルバイトで学費を稼ぎ、4年間の学生生活を送りました。

在学中の先輩には山本耀司さんや熊谷登喜夫さん、後にアトリエサブを立ち上げる田中三郎さんなどそうそうたるメンバーが居ました。

そしてここで大きな出会いが待っています。現在の奥様であり、同社デザイナーの葉山啓子さんや創業メンバーの久保野和子さんと同級生として知り合うのです。装苑賞の作品制作などを通じて固い絆が出来上がっていきます。

そんな中、須賀さんは卒業前の年末から主婦と生活社(生活社)でスタイリストの仕事を引き受け、働き始めます。すでに夏にはパリに旅立つことを決めていた須賀さんに、生活社は、卒業後も契約でパリ駐在の仕事を依頼。その仕事は、なんと「『JUNON(ジュノン)』の表紙にするために、葉山さんをモデルに12ヶ月分のスタイリングを12ヶ国で撮影して、送ってくること」という内容。渡仏前に12のシーンを決め、それに沿った衣裳を制作していきます。1シーンで靴や帽子、インナーまで作品を制作しなければならず、準備に大わらわの日々だったようです。そして、それらを持って72年8月に旅立つことになりました。

「JUNON」主婦と生活社

『JUNON』主婦と生活社 撮影/丹地 敏明

価値観を作ったヨーロッパでの日々

スイスから入り、車を手に入れ、旅がスタート。

ある時は車でローマからバルセロナまで向かい、パリに戻る。またある時はカレからロンドンに渡り、リバプールから船に乗ってオスロへ。そして雪景色のスウェーデンを経由して黄色い花々が咲き乱れるドイツの地に上陸するなど気候や風土、建築や文化の違いに翻弄されながらの旅を続けます。危険なことも多々あり、20代前半の若者にとっては全てがカルチャーショックであり、大いなる刺激でした。

9月のテーマでは「ポプラの並木」で撮りたいと何週間も掛けて探し回り、やっとワンシーンの撮影を終え、国際電話をしようにもホテルでは対応できず、郵便局まで行ってコレクトコールをするなど、苦労は絶えませんが、それはまた別の意味で深い経験として蓄積されていきました。

春夏テーマと秋冬テーマの2クールに分けて撮り進められた1年間でしたが、最初の6ヶ月間の春夏テーマが終わり、ひと段落した時期がありました。この頃、須賀さん自身の生き方の方向性も固まり始めたようで、カメラマンのアイデアから、撮影目的という名目にしてチューリッヒの修道院で結婚写真を撮り、フランスの日本大使館に婚姻届を出します。日本に居る両親は、本人たちが居ない日本で、家族同士の挨拶をするなど、親をびっくりさせる破天荒な二人だったようです。

12ヶ月のシーンを撮り終えた二人はパリに戻り、撮影衣裳を売ってお金に換え、しばらく落ち着いたパリ生活を満喫します。

「あの経験が無かったら経営者にはなっていなかった」と須賀さんは振り返ります。

「JUNON」_cover撮影01_丹地様修正 「JUNON」_cover撮影02_丹地様修正

『JUNON』主婦と生活社 撮影/丹地 敏明

『JUNON』主婦と生活社 撮影/丹地 敏明

ファッション須賀を創業

73年秋に帰国し、翌年、ODMの事業を始めます。この頃、多くの婦人服アパレルが伸び盛りでしたが、特に「若々しく新しいデザインが欲しい」という要望があったため、デザイン画を提案し、パターンを引き、製品化して納めるODMの仕事が引きも切らずありました。

そんな中、アパレルの営業部長に地方の専門店に連れて行ってもらい、アパレル営業のイロハを教えてもらったそうです。

そして「白花(ハッカ)」と名付けたオリジナルブランドも同時にスタートさせます。敢えて白花と漢字にしたのは、日本の大切にすべきものや文化を強調したいとの思いからでした。それは海外で様々な文化に触れ、見聞を広めたからこそ言える「日本の良さや誇り」に対する再認識があったからなのです。このオリジナルブランドの仕事は夕方5時以降にやると決め、5時までのODMは給料を稼ぐ時間、「余白の中で新しい事業をやろう」とケジメを付けていたそうです。

葉山さん、久保野さん、ともにデザイナー。デザイナーしか居ない会社だから、自分はそれ以外の仕事をやろうと営業、生産から経理までやるようになりました。

75年にはオリジナルブランドのみに転換し、売り上げも利益も倍々で増えていきます。

「HAKKA」1992年春夏 撮影/斉藤 亢

「HAKKA」1992年春夏 撮影/斉藤 亢

他にない子供服を

そして年商3億で、一つ目の天井を迎えていました。そんな折り、雑誌『ジュノン』の「子供実験室」という企画ページの話が持ち込まれたのが76年。それまでは、決まり切ったような子供服しか存在しておらず、「今の若い感性でアバンギャルドな子供服に挑戦しよう」という誌面企画でした。半年程続いた実験室を経て、「HAKKA KIDS(ハッカキッズ)」の立ち上げへと繋がります。そして3億の壁を乗り越え、第2の成長期へと入りました。

「JUNON」1974年4月号主婦と生活社左「JUNON」1974年4月号主婦と生活社右

『JUNON』1974年4月号(主婦と生活社)

アパレルからライフスタイルへ

87年にはハッカがキャリア層へとエイジアップしてきたのに伴い、ヤングを狙った「SUPER HAKKA(スーパーハッカ)」を発売。この頃、タイでの生産会社オーナーがハッカの大ファンだったこともあり、生産とタイ国内のFC販売を目的としたバンコクハッカを合弁で設立します。このタイとの出会いをきっかけに90年、タイ料理レストラン「RICE TERRACE(ライステラス)」を西麻布にオープンし、飲食事業もスタートさせます。

「SUPER HAKKA」1994年夏 撮影/斉藤 亢

「SUPER HAKKA」1994年夏 撮影/斉藤 亢

 

ハッカパリの子供服ブランド「asshu・ca」2002年秋冬 撮影/斉藤 亢

ハッカパリの子供服「asshu・ca」2002年秋冬 撮影/斉藤 亢

 

Cafe Madu青山店_外観

92年にはフランス・パリにハッカパリを設立、ついにヨーロッパでの子供服販売を開始します。

そしていよいよライフスタイル事業を本格化すべく、94年に食器を中心とした生活雑貨の店「Madu(マディ)」と併設するカフェレストラン「Café Madu(カフェマディ)」を南青山にオープンします。

須賀さんはライフスタイル事業について「従来の店と違い、ファッション的に扱いたかった」と自身の磨きをかけてきたファッションのフィールドから組み立てるライフスタイル事業を目指していたようです。

Madu_image Madu青山店_内観_石木花

その後ハッカは葉山さんからデザイナー交代によって「H.A.K(ハク)」とブランド名を変え、葉山さんは「KEI Hayama PLUS(ケイハヤマプリュス)」というシグニチャーブランドをスタート。子供服では、セレクトショップ業態の「Ribbon hakka kids(リボンハッカキッズ)」を開発し、カフェとの併設店舗も充実させています。

こうしてレディス、キッズ、飲食雑貨のそれぞれの部門が1/3ずつになるように構成し、約100店舗、年商約70億円(2013年7月期)の規模になっています。

H.A.K_1998wintercollection HAKKA KIDS_2013awcollection

「H.A.K」1998年冬(左)、「HAKKA KIDS」2013年秋冬(右) 撮影/斉藤 亢

Ribbon hakka kids表参道ヒルズ店_2014春内観01 H.A.K・KEI Hayama PLUS代官山ディセ店_2011冬内観

「Ribbon hakka kids」表参道ヒルズ店(左)、「H.A.K・KEI Hayama PLUS」代官山ディセ店(右)

未来を見つめて

創業から40年を経て、今、須賀さんは次のように語ってくれました。

「アパレルだけやっていると何だか寂しくなってくるんですよ。だからライフスタイルに目を向けて。でも今は、なんでもっと洋服に真剣に取り組まなかったのか。ライフスタイルやっていると格好良いように見えるけど、ある意味、洋服から逃げているんですよ。売れている物を見ると、なんでこんな物が売れているんだろうという物だったり。もう見たくないって思ったり。売れている物が全て格好良い物ばかりではないし。アレが売れているっていうとみんなが真似していく。でも、みんな、そこから動けなくなる怖さがあるんです。そんな事が、なんか古臭く見えてくる。食器や飲食の方がオシャレ感あって、そっちに逃げていたのかな。もっと洋服に真摯に向き合って良い物を作らないと駄目だなと思う。食器にしても飲食にしても、まだまだ半人前ですよ。事業の基盤としてはできていますけど、それぞれが支え合っていることで、逆に一つの事業としての強みができていません。これからは、一つ一つの事業部の専門性を高めていかなければいけないんだと思います。どこかの事業部にオファーが多い時には、他の事業部が休憩しているんですよ。その時に熟成している部分もあって、まあバランスがいいって言えばそうなんだけど。やはり、これからは、もっと突き詰めていきたいと思います。」

次の課題を見据える眼には、闘志がみなぎっているように見えました。

http://www.hakka-group.co.jp

 

「KEI Hayama PLUS」2012年春夏 撮影/斉藤 亢

「KEI Hayama PLUS」2012年春夏 撮影/斉藤 亢